職業作家への道

自分の文章で生活できるなんて素敵。普通の会社員が全力で小説家を目指します

自選小説『バンガロー』

 

 

 

 

「バンガロォー、バンガロォー」

 

 

ヌンがそう言えば、旅行者達はとりあえずこちらを向いてくれる

 

 

すぐに目を逸らしたって、また戻ってくることが多い

 

 

諦めずに声を張り上げることが肝心だ

 

 

客が通り過ぎた後にも、ヌンの声は彼らの耳に残っている

 

 

他のバンガローが気に入らないと引き返してきて、ヌンのバンガローを確認させてくれという人は多い

 

 

ヌンはいつものように娘のコイを抱かかえながら、バンガローと叫び続けていた

 


ヌンは夫とバンコクで出会い、結婚した

 

 

夫は電車技師をしていたが、バンコクでの慌ただしい生活に嫌気がさし、辞めてしまった

 

 

夫は昔訪れたことのある島で宿を経営したいと言い始めた

 

 

ヌンは当然、反対した

 

 

バンコクは確実に裕福になってきている

 

 

それなのに、そこを抜け出して見知らぬ孤島に行くなど、考えられることではなかった

 

 

とはいえ、新婚後間もないヌンには夫に強く抵抗できるほど、力関係で有利な立場にはいなかった

 


最初に島を見た時はとんでもないところに来てしまったという、驚愕に似た焦りで背筋に寒さを覚えた

 

 

二三日の旅行ではない

 

 

一生の話なのだ

 

 

夫は先にこの島に来て、バンガローの建設を監督していた

 

 

完成を迎えて、ヌンは迎え入れられた

 

 

この島は美しい海が残されており、まだ観光地としてはほとんど注目されていなかった

 

 

経営は当初厳しい状況だったが、状況は好転していく

 

 

というのも、近隣諸島は過度のリゾート化のため、海が汚れてきていた

 

 

旅行者たちは常に美しい海を台無しにし、新たな美しい海を追いかけまわす

 

 

この島も今は美しい海を保っているがいずれは同じ運命を歩むことは、ヌンも分かっている

 

 

まだ汚れてはいないが、空き缶やビニール袋が海に沈むようになった

 

 

そうなる前に、このバンガローで荒稼ぎをしておき、旅人が居なくなっても生活できるようになるのがヌンの願いだった

 


最初はバンガローの数は十だったし、掘建て小屋のようなところで新婚生活を送り、旅行者を勧誘していたが、今ではバンガローの数は三十に達し、三階建ての家を建て、一階は雑貨や本やレンタルバイクを置いている

 

 

最初は夫婦二人だけで始めたが、今では従業員の数は夫婦を除いて五人もいる

 

 

ここへ来て五年目にようやく娘を授かった

 

 

ちょうど三年前のことだ。今では娘のコイも二才になり、随分と子育ても楽になった

 

 

ヌンの考え方もバンコクに居る時に比べ、随分と変わってきている

 

 

いつかはバンコクに帰るつもりだったが、ここを終生の住み家にする決意は出来ている

 

 

コイが大きくなるまでにバンガローを五十に増やし、敷地のない道を整備したい

 

 

コイがいい人を見つけたら、若い二人に経営は任せて、夫とのんびり余生を送ることができれば、不満など何一つなかった

 


最近、ヌンが考えているのがコイの相手のことだった

 

 

このバンガローにはタイ人も、西洋人も東洋人も、世界各国からくる

 

 

つまり、ヌンは世界の人間をくまなく見ているのだった

 

 

コイはどの国の男を選べば、幸せな家庭を作ることが出来るのか

 

 

時間を持て余すヌンはそんな夢想をすることが多い

 

 

とはいえ、西洋人といって簡単に一くくりに出来るわけではない

 

 

バンガローで麻薬を吸う者もいれば、娼婦のような女を連れ込む者も居る

 

 

東洋人は決まったように真面目なのだが、面白みに欠ける

 

 

せっかく遠くまで旅行に来ても、部屋に居る時間がやけに長い

 

 

タイ人はといえば、金を信奉する人間が増えすぎてしまった

 

 

かといって、優しい人間もいるがそういう者に限って金はない

 

 

コイはこの若さで世界中の人間を見てきている

 

 

そういう意味では狭い世界に留まらず、広い見聞を持った人間に育つだろう

 

 

今日も多くの外国人が訪れる

 

 

ヌンはいつものように、店に座りコイを抱かかえて声を張り上げる

 

 

「バンガロォー、バンガロォー」

 


ちょうど一週間前から西洋人の若者が大きなリュックを背中に抱え、このバンガローの宿泊を決めた

 

 

エアコンなしのシングルルーム

 

 

今やヌンもエアコンがなければ耐えられない

 

 

エアコンもない部屋に泊まり、旅行者はよく耐えられるものだとヌンは思う

 

 

どの旅行者も故郷に帰れば、もっと広い家でくつろいだ生活を送っているだろうに

 

 

その若者はハンガリーから来たと言った

 

 

背が高く、髪は短い

 

 

賑やかにはしゃぐ感じではなく、時おり弱々しく笑うのだが、とても優しい顔だった

 

 

海に入るわけでもなさそうだったし、何か買いたいものがあるわけでもなさそうだった

 

 

モトバイクにまたがり、どこかへ出かけ、食堂で寝そべりながらほとんど一日中、本を読んでいた

 

 

タイ北部の山岳民族の本だった

 

 

内向的な彼にヌンは幾度か話し掛けた

 

 

「旅はまだ始まったばかりで、これからずっと続くんです」

 

 

若者は得意ではなさそうな英語を選びながら喋った

 

 

「ここには何泊くらいするつもり? 一月くらいは居るんでしょ?」

 

 

「分からない。出て行きたくなったら、出て行こうと思う」

 

 

「タイの山岳民族に会いに行くの?」

 

 

「まだ決めていないけれど、興味は持っている」

 

 

「なぜ?」

 

 

「僕には想像もしたことのない世界だから」

 

 

考えてみれば、ヌンは旅人の気持ちなど全く分からない

 

 

この若者にしても、何がしたいのかよく分からない

 

 

そんな会話をして居る時、従業員二人が、新しい石のベンチをビーチの近くに置くために、担いでいた

 

 

石だからかなりの重さに違いないのだが、一人が手をすべらしその拍子に石のベンチが落下した

 

 

従業員の一人が大きな叫び声を上げた

 

 

すると、ハンガリー人の男が飛び上がり、駆けつけた

 

 

負傷した従業員の足を見るとすぐにどこかへ行き、氷と紐と金属の板のようなものを買ってきた

 

 

金属の板を負傷した足に置き、そのまま紐でぐるぐる巻きにした

 

 

氷をその上に置いた後、負傷しなかった従業員と石のベンチを持ち上げ、所定の場所に運んでくれた

 

 

その間、ハンガリー人は一言も喋らなかった

 

 

最後にノープロブレム、と言い、コイの頭を撫でてバンガローに戻っていった

 

 

コイはその後ろ姿をじっと見ていた

 

 

神様のように見えたのかもしれない

 

 

ここの泊まる旅行者は一見、怠惰に見えるが何か事が起これば、実行力を見せることがある

 

 

もちろん、全ての旅行者ではない

 

 

二週間もすると、負傷した従業員は全く支障なく歩けるようになった

 

 

ヌンがハンガリー人に宿の値引きをしてあげると言うと、とても嬉しそうな顔をして喜んだ

 

 

断られなかったことが、ヌンには嬉しかった

 

 

コイの誕生日の日、従業員は早めに仕事を終わらせ、ちょっとした会を設けた

 

 

道路沿いでやっていたため、宿泊客も気楽に参加をしてくれた

 

 

ハンガリーの若者も後から参加したが、ほとんど何も言わずに、祝福されていることを分かっているような分かっていないようなコイを静かに眺めていた

 

 

彼もコイにプレゼントを渡した

 

 

緑色の生き物のシールだった

 

 

ハンガリーでは人気があるのかもしれない

 

 

コイはそのプレゼントを特別気に入っているわけではなさそうだった

 

 

コイの誕生日会も終わりになり、一人一人と帰っていった

 

 

コイは眠りにつき、ヌンは一人で後片付けをしていた

 

 

もう辺りは真っ暗で、犬の泣き声が時おりするばかりで、静かなものだった

 

 

そこにハンガリーの若者が現れた

 

 

「明日、出発します、」

 

 

唐突に言ってきた

 

 

「あら、どうして? もっと居ればいいじゃない?」

 

 

「僕も本当はそうしたい。ここは素晴らしいところだけれども、まだまだ行きたいところがたくさんある」

 

 

「お金の問題だったらもう少し安くするけれど。あなたにはいろいろと助けてもらったこともあるし」

 

 

「それは本当にありがたいと思いますが、時間は限られているから」

 

 

「分かったわ。残念だけれど、仕方ないわね」

 

 

「ええ、これまでのお金を精算しに来ました」

 

 

「ちょっと待ってて。計算するわ」

 

 

ヌンは奥に行き、台帳を持ってきた

 

 

彼が来てからもうそろそろ一ヶ月になろうとしていた

 

 

時が経つのはとてつもなく早い

 

 

どうしてこんなに早く過ぎていくのだろうか

 

 

そんなことを考えると。胸がしめつけられるようだった

 

 

ヌンはハンガリーの若者を見た

 

 

優しくて素敵な目だった

 

 

誰にでもこんな目ができるのだとしたら、それは大きな罪になるような気がした

 

 

ヌンだってまだ三十の半ばを迎えたばかりで、年老いているというわけではない

 

 

どこかへ飛び出そうと思えば飛び出すことだってできるのだ

 

 

コイが生まれてからは髪はぼさぼさで必死に生活をしてきたけれど、ちょっと整えれば、まだまだ魅力があるという自負はある

 

 

ヌンは自分でもよく分からないが、ハンガリー人の前にいると何か恥ずかしいような気がした

 

 

「私もこんな生活を抜け出して、あなたと一緒に旅でもしようかしら」

 

 

若者は何も言わなかった

 

 

その態度はヌンを一層どぎまぎさせた

 

 

本人にその気があるのならば、一向に構わない

 

 

そういう態度に見えた

 

 

コイだって最初はつらいだろうけれど、時間が経ってしまえば母の面影なんてすぐに忘れてしまう

 

 

主人にしても、若い女を迎えた方が幸福かもしれない

 

 

宿にしても家庭にしても、自分が居なくては駄目だと思っているのは私だけで、もしかしたら何事もなかったかのように、毎日朝が訪れて、旅行者達が来て、コイはすくすくと成長するのではないか

 

 

だとしたら、私が髪を振り乱してまで守っているものとは何だろう

 

 

声が枯れるまで張り上げているバンガローとは、一体何か

 

 

気付けば、ヌンは今送っている生活を否定しようとしている

 

 

「奥さん、」

 

 

ハンガリー人は言った

 

 

ヌンは自分のことを指しているとはしばらく気付かなかった

 

 

これまでこの人は自分のことを何と呼んでいたのだったか

 

 

「奥さん、そんなことは言わない方がいい。きっと後悔しますよ。でも、その後悔がしたいのならば一緒に行きましょう」

 

 

ヌンは耳を疑った

 

 

今まで現れ得なかった横道が突如現れたのだ

 

 

ヌンはその横道をじっと見据えた

 

 

どんな花が咲いているのか

 

 

とてつもない障壁が待っているのか

 

 

だが、何も浮かんでは来ない

 

 

想像すらできない

 

 

ハンガリー人はじっとヌンを見ていた

 

 

こういう人生であっても何か変わるというのか

 

 

だが、そういう人生でなくても何が変わるというのか

 

 

よく分からないが、ヌンは若者の胸に顔を埋めたくなった

 

 

自分のそういう女という枠を脱しきれないところが嫌いだった

 

 

よく分からなくなってしまうと、なぜ男の胸に顔を埋めたくなるのか

 

 

奥でコイが泣く声が聞こえた

 

 

あの泣き声だと、母親が居ないことに気付き、そのうち起きてしまうだろう

 

 

ヌンはちょっと待っていて、と言いコイのところへ行った

 

 

十分くらいあやした後、コイは落ち着いてすぐに眠った

 

 

ヌンが戻った時には、ハンガリー人の姿はなかった

 

 

これまでの宿代だと思われる金だけが置いてあった

 

 

後片付けはまだほとんど終わっていなかった

 

 

翌朝早くからもヌンは昨日と同じようにコイを抱きながら、バンガロォー、バンガロォーと声を上げていた

 

 

これは癖みたいなものだ

 

 

昨日にどんなことがあっても、この掛け声らしきものから始めてしまう

 

 

すると、大きなリュックを背負ったハンガリー人が前を通った

 

 

「お金は足りていましたか?」

 

 

「ぴったりだったわ」

 

 

本当は少し足りていなかった

 

 

 

「またいつかここに来ます」

 

 

若い男はそう言って歩き始め、すぐに姿は見えなくなった

 

 

あの若者の何を知っているわけでもないが、コイはああいう男と一緒になればいい

 

 

そう思った

 

 

「バンガロォー、バンガロォー」

 

 

誰も通っていないが、ヌンは声を張り上げた

 

 

もしかしたら、あの若者に声が聞こえるかもしれない

 

 

この声があの若者の耳に入れば、彼の旅の前途が少しでも良くなるような気がした

 


「バンガロォー、バンガロォー」

 

 

ヌンの朝はまた同じように始まった

 

 

<了>

 

プライバシーポリシー