職業作家への道

自分の文章で生活できるなんて素敵。普通の会社員が全力で小説家を目指します

自選小説『ダンディー』



 

ダンディー

 

 

そこは、海沿いにある観光地だった。

 

 

海岸沿いの道路には二階建ての建物が並んでいて、一階部分は様々な店舗になっていた。

 

 

マリンスポーツ、イタリアンレストラン、コンビニエンスストア、釣具屋、居酒屋、結婚式場、あらゆる店がそろっていた。

 

 

その並びに一店のコーヒー屋があった。

 

 

看板には富士珈琲と書かれていた。

 

 

店は丸太小屋のような木造の建屋で屋根は赤かった。

 

 

海の見えるテラスもある。

 

 

観光の季節になるとテラスも全て埋まり、オフシーズンだと店は静かに始まり、静かに終わった。

 

 

その男は富士珈琲に、毎朝決まって同じくらいの時間に現れた。

 

 

着席すると同時にホットコーヒーを頼んでいた。

 

 

それがどれだけ暑い日であっても、冷たいコーヒーは頼まなかった。

 

 

そして、一口飲むと眉を少し動かすだけで、あとは文庫本を読みながら同じ動作を繰り返していた。

 

 

時おり、本から視線を上げて何か考えているようでもあったが、何も考えていないようでもあった。

 

 

男は短髪の白髪で、たまに無精髭が生えていることもあった。

 

 

髭が生えている時は少し疲れているように見えることもあったが、それ以外に外見の変化は何もなく、何か風変わりな特徴があるわけでもなかった。

 

 

格好はいつもラフではあったが、みすぼらしいわけではない。

 

 

その風体からはこの男が金持ちなのか、貧乏なのかも分からなかった。

 

 

コーヒー屋の店員たちで男のことを知らない者はいなかったが、無口で少し影があるばかりで他に形容する言葉もなかったため、店員同士では他に選択肢もなくダンディーというあだ名を付けて呼んでいた。

 

 

男は長いときは昼近くまでいることもあったが、混み始める前に退散した。

 

 

食事を摂ることは滅多になかった。ごくたまにパスタを食べて帰ることもあった。

 

 

最初にその男が食事を注文した時、店員たちは驚いた。

 

 

ものを食べるという人として当たり前のことが、ダンディーには似つかわしくなく思われた。

 

 

だが、店員たちが驚いたのは最初だけで、それ以降はたまに食事も注文するということが理解されると、特に気にすることもなくなった。

 

 

ダンディーがまれに食事を注文するのと同じように、朝以外の時間にくることもあると思っている店員もいたが、午後にその姿を見ることはほとんどなかった。

 

 

店員たちの印象にこの男が残っているのは、毎日来るということが主な理由だが、この観光地化されて賑やかな街に、知り合いを一人も連れてくることなく一人だったからだった。

 

 

この店の客はほとんどが観光客で、地元の人たちがくることはあまりなかった。

 

 

だから、常連になるような人はあまりいない。

 

 

もちろん、地元の人で来てくれる人もいるが、それほど毎日くるわけではないし、来たとしても家族だったり、カップルだったりした。

 

 

この男がどこに住んでいて、どんな生活をしているのか、店員たちは誰も知らなかった。

 

 

ある時、若い一人の女性店員が、意を決してダンディーに話しかけたことがあった。

 

 

若くて美しく気だてのいい女性に話しかけられて不愉快な中年男性などいない。

 

 

女性店員本人も少なくともそのことに自覚的だった。

 

 

「いつもご来店くださってありがとうございます」

 

 

ダンディーは文庫本から顔を上げて怪訝そうな顔をして女性店員を見た。

 

 

そして軽く会釈をした。

 

 

「ご自宅はこの辺なんですか?」

 

 

またもやダンディーは声も出さない。

 

 

小さく頷いただけだった。

 

 

「ここから近いんですか?」

 

 

同じ動作をダンディーは繰り返した。

 

 

首を縦に振ったが、唇は開かなかった。

 

 

「ありがとうございます。ごゆっくりください」

 

 

自信のあった女性店員も、これ以上何かをほじくり出すのは不可能だと分かり、そこで話を切り上げた。

 

 

少なくとも、近くに住んでいることだけは分かった。

 

 

些細な出来事ではあったが、これ以来、この店の店員から男に話しかけることはなくなった。

 

 

少なくともダンディーは一人でいるからといって、コミュニケーションを欲しいているわけではない。

 

 

そうだとすれば、コーヒー屋の店員にできることと言えば、静かにコーヒーを提供することのみだと理解した。

 

 

それからのダンディーは本当にこの店と一体化したかのように、いよいよ誰の気にもとめられず、過ごすようになった。

 

 

ある意味において、この男はとてつもなく安定した客になっていた。

 

 

何かの天変地異でも起きない限り、この客がいる店の風景は続く。

 

 

店の人たちがそう信じていたある日、突如ダンディーは一人の女性と一緒に富士珈琲に入ってきて、店員たちの度肝を抜いた。

 

 

まさしくダンディーの横に並ぶのにふさわしい、細身の美しい女性だった。

 

 

年齢は30前後くらいだと店員たちは囁き合った。

 

 

不運にも見ることができなかった人たちは、指もすらっとしていて髪も長く、美しい女性だったと説明を受けた。

 

 

一部の女性店員は、少なからずダンディー若い女を連れてきたことにショックを受けていた。

 

 

ダンディーは本とコーヒーにしか興味のない無口で武骨な男だと思っていたのに、妙齢の女性を連れてきて、普段では考えられないほどにこやかな顔をして、饒舌に話している。

 

 

内心では幻滅したりがっかりした女性店員がいたことは事実だった。

 

 

どんな話をしているのか。注文を聞きに行く時に店員は確認しようと したが、残念ながら人が近づいてきたら二人は黙った。

 

 

みんな何かやましい関係なのではないかと疑った。

 

 

だが、店員たちの囁きなど届くはずもなく、二人はコーヒーを飲み終わると、さっと帰っていった。

 

 

あれだけにこやかなダンディーを見たことがない。

 

 

店員たちは間違いなく恋人だと噂をした。

 

 

一部では、ダンディーがお金を払ってかこっている女性だと言っている者もいた。

 

 

いずれにしても推測の域を出ず、誰も本当のことは分からなかった。

 

 

だが、大方の予想を裏切り、翌日からダンディーは再びいつもと全く変わらず一人で店に訪れた。

 

 

そして何くわぬ顔をして、コーヒーを注文して飲み始めた。

 

 

それからもダンディーは毎日一人で現れた。

 

 

晴れの日はもちろん、雨の日も雪が降っていても来た。

 

 

ダンディーが来るようになって数年が経ち、店員の何人かは入れ替わっていった。

 

 

大学生としてアルバイトをしていた子は大学を卒業すると富士珈琲も辞めていった。

 

 

一方で学業とは関係なくずっと続けている店員もいた。

 

 

だが、誰も予想していなかった日がきた。

 

 

ダンディーが店に現れなくなったのだ。

 

 

ごく稀にダンディーが現れないこともあったから、初日は珍しい日だと囁き合ったが、二日目、三日目と現れなくなると、さすがに店員たちも何かが起こったと気付いた。

 

 

店員は店長に、今までそんなことがあったか聞いたが、店長の記憶でもかつて二日連続でダンディーが来なかったことは一度もなかった。

 

 

四日目も五日目も、六日目も七日目もダンディーは富士珈琲に現れなかった。

 

 

その頃になると店員たちはもう諦めていた。

 

 

行方不明者が出た身内のように、もう絶望的のような気がした。

 

 

いつもは当たり前のようにいた人がいなくなり、もう二度と会えないことが濃厚になった。

 

 

再びダンディーが現れたとして、何を語るわけでもない。

 

 

ホットコーヒーを頼み、眉を少し動かして本を読むだけに違いない。

 

 

そして昼前には帰って行く。

 

 

にもかかわらず、店の人たちからしたら何かが永遠に失われてしまった気がした。

 

 

だが、それも長続きはしなかった。

 

 

富士珈琲も慌ただしい毎日があり、二週間も過ぎるともう誰もダンディーのことは話さなくなった。

 

 

ダンディーが座っていた席には入れ替わり立ち替わり違うお客さんが座るようになっていた。

 

 

晴れの日も雨の日も、富士珈琲からはダンディーの姿が完全に消えた。

 

 

そんなある日、富士珈琲に30くらいの女性が現れた。

 

 

最初は誰も気付かなかったが、一人の店員がその女性が誰か思い出した。

 

 

一度だけダンディーと一緒に来た女性だった。

 

 

そのことに気付いた女性店員は、かつてダンディーが女性と二人で来た時に、注文を取りに行った人物だった。

 

 

すると、ダンディーと一緒にいた女性客は店員に話しかけてきた。

 

 

「すみません」

 

 

「はい、ご注文をお伺いします」

 

 

「ホットのレモンティーをください」

 

 

「かしこまりました」

 

 

「あと、すみません。いつもここにお邪魔していた、おじさんというか初老の男性のことご存じでしょうか。毎日のように通ってた人です」

 

 

「はい。分かると思います。いつもこちらの席にお座りになられていた?」

 

 

「ええ、そうです。多分いつもここに座っていたと思います」

 

 

「覚えております。ずいぶん長く来ていただいておりました」

 

 

「ということは、最近はもう来なくなっていますよね?」

 

 

「そうですね。はい。近頃はお姿を見なくなってしまいました」

 

 

「そうですよね。やっぱりそうですか」

 

 

「何かうちのお店が粗相でも?」

 

 

「あ、いえいえ。そんなことは全くありません。父はこのお店が大好きでしたので」

 

 

「お父さま、ですか?」

 

 

「はい。彼は私の父です」

 

 

「そうだったんですね。一度、ご一緒に来店いただいたことがございましたよね」

 

 

まさか愛人のように見えていたなどは言えない。

 

 

「あ、そうなんです。私も休みの日に一度だけ父とこのお店にお邪魔したんです。すごいですね。覚えてくださっていて」

 

 

「お父さまは毎日来てくださって、特別なお客さまでしたから」

 

 

「いくら気に入っても、あれだけ毎日来る人もいないですよね。父は凝り性というか、気に入ったらずっと同じところに通うんです」

 

 

「お父さまはどうされたんですか?」

 

 

「それが、ここのところ連絡が取れなくなって、どうしたのかと思って、家に行ってみたらもぬけの殻だったんです」

 

 

「え、、、それは心配ですね、」

 

 

「普通でしたらそうなんでしょうけど、母が亡くなってから、父は放浪癖があって、気に入ったところがあったら一人で住んで、しばらくしたら引っ越すみたいな暮らしをずっと続けてるんです。だから、少し落ち着いたら私のところにも連絡がくると思います。最近連絡がないので、またどこか違う場所に越したんだろうなと思って来てみましたが、やっぱりその通りでした」

 

 

「そうだったんですね。どこに行かれたかは、心当たりはないのでしょうか」

 

 

「まったくないんです。今まで縁もゆかりもなかった土地に急に住み始めるんで」

 

 

「娘さんとしては一本くらい連絡がほしいですよね。不要な心配させないためにも」

 

 

「はい。いつも父にはそう言ってるんです。次は引っ越す前にちゃんと連絡してって。でも、本人は必死なんでしょうね。次の場所に行く準備とか、心の高揚とか起きちゃったりして。やると決めたら一気に突っ走っていくんで。小さい頃もそうでした。妹がいるんですが、小さい頃は大変でした。気になったものがあったら父は、私と妹を置いて、ぱーっとそっちの方に向かっていって、私たちは何回迷子になったか」

 

 

 女性店員はくすりと笑った。

 

 

「そうでしたか」

 

 

ダンディーの姿を覚えている店員としては、そんなアクティブな姿は想像し難いものがあったが、確かに身内とそれ以外での見え方は全く違っていたりする。

 

 

レモンティーを飲んだ後、ダンディーの娘は去っていった。

 

 

言われてみれば、どこか似ている気もした。

 

 

父に会ったら、お店の人が覚えていてくれたよって伝えておきます、とダンディーの娘は言っていた。

 

 

だが、それを聞いてもダンディーは何の感慨も湧かないのだろうと、他人の店員でも分かった。

 

 

ダンディーの娘が帰ったあと、富士珈琲は不思議と客足が少なくなった。

 

 

夕方からは急に雨が降ってきて、ますます客の入りが悪くなった。

 

 

その日、女性店員はやる仕事がほとんどなくなっていた。

 

 

各テーブルのフォークやナイフ、砂糖を補充したり、机を拭いたり掃除をしながら、ダンディーのことを考えてみた。

 

 

急に思い立って全く知らない土地で一人で暮らし始める。

 

 

気になった店を見つけたら通うようになって、いつも同じ席に座り、いつも同じ顔をしてコーヒーを飲む。

 

 

だが、彼はコーヒーの味なんて本当はどうだっていい。

 

 

ダンディーが何を考えているか、身内でも分からない。

 

 

あのコーヒーを毎日一人で飲んでいた男は、そこ知れぬ悲しみを持って生きているような気が不意にした。

 

 

その悲しみが何なのか、店員には分からない。

 

 

外はまだ雨が降っていて、辺りは本格的に暗くなってきていた。

 

 

今もこの世のどこかでダンディーは生活している。

 

 

その場所でも今、雨が降っているのだろうか。

 

 

店員はテーブルを拭きながら、なぜかそのことがひどく気になった。

 

 

<了>

 

 

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