職業作家への道

自分の文章で生活できるなんて素敵。普通の会社員が全力で小説家を目指します

『東京に暮す―1928~1936』キャサリン・サンソム

 

 

昔の日本人がどういう暮らしをしていて、何を考えながら生きていたのか


最近はそういうことを考えるようになってきました

 

なぜなのかは自分でもよく分かりません

 

もしかしたら死とか老いを意識する年齢だからかもしれません

 

かつて、私は本屋さんのアルバイトをしていました。レジでカバーをしたり会計をするのみでしたが、年配の男性はほぼ時代小説を持ってきていました

 

時代小説と年配の男性という組み合わせに例外はない、と断言したくなるくらいです

 

若い女性も若い男性もほとんど時代小説は買っていませんでした

 

しかも、時代小説は購買層がそれなりのお金持ち世代だからか、ものすごく売れていました

 

なぜ、人は年をとると時代小説を読むのか(そもそもこの仮説を生として進めることに問題があるかもしれませんが・・・)

 

勝手に夢想してみますと、、、

 

人は年をとればとるほど、身近で人が亡くなる経験していきます。特に向き合うのは親族であることが多いわけですが、その時に強く自分の先祖を想うことがあります

 

例えば、親族が集まり知らない人が現れて、先祖でつながっていることを知る。自分のお墓の側面に先祖の名前を見る。家系図を見せてくれる親戚の人がいる。親族が亡くなることで、自分のルーツについて知る機会が増えます

 

その時にイメージするのは、祖父、曾祖父などが実際に生きていた頃の社会の空気です

 

パソコンもエアコンもなかった。電話もテレビもなかった。人々は当時何をしていたのだろうか。その世界を見てみたい

 

勝手な連想ゲームですが、そんな風に過去に目を向け、歴史に目を向けるようになり、時代小説を手に取るようになるのではないか。そんな風に思ったりします

 

もしくは単純に、日本人は死に機敏な感性を持っているからかもしれません

 

そうでなくてはこんなに時代小説が売られて読まれている国はないようにも思います

 

ちなみに私はまだ時代小説まだたどり着いておらず、江戸、明治、大正あたりに外国人が日本に旅行して残した手記を読むことが多いです

 

というのも、当時の日本人は当時の日本が当たり前なので、日常生活を驚きと共に観察していません。外国から日本に来た人が新鮮に驚いているものを読んだ方が、今の私たちの感覚が近いような気がしたからです

 

ずいぶんと迂回しましたが、『東京に暮す―1928~1936』を読みました

 

夫の仕事の都合で日本に来たイギリス人女性が日本人の印象についてまとめた本です


こういう著作は日本に肯定的な内容になりがちです。我々も自分が行ったことがある国には愛着が湧くのと似ているのかもしれません

 

何らかの興味があって日本に来ている以上、そこに素晴らしさを求めなくては自分の生きている時間を否定することになりかねないというのもあるのでしょうか

 

著者キャサリン・サンソムにもその傾向はあるものの、極めて公平な視点で見ようとしています


人間観察も鋭く、じっくり眺めている眼差しを感じ取ることができます

 

例えばこんな一節がありました

 

「日本人の礼儀作法は、事物の体系の中で自分が取るに足らない存在であることを強調します。相手と比べて自分はつまらない人間であるから、自分の方が相手より深く長くお辞儀をしなくてはいけないのです。」

 

これは日本人には書くことのできない一節かもしれません

 

我々が薄々気付いていることですが、ここまではっきりと言葉にすることはなかなか難しいです


この指摘は悔しいような気がしますが反論しがたい観察です

 

冷徹な眼差しで眺めながらもキャサリン・サンソムは日本人を愛しています。現代のイギリス人が私たちをそこまで愛してくれている感じはしません

 

キャサリン・サンソムが来日した時代は、やはり途上国として日本を見ていたから
眼差しが温かくなったのでしょうか


当時の日本人が持っていた良さを、今の我々は持っているのだろうか・・・と、私がついつい自省してしまうところは、いかにも日本人の癖なのかもしれません

 

東京に暮す―1928~1936 (岩波文庫)

東京に暮す―1928~1936 (岩波文庫)

 

 

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