偉そうなタイトルですが、私も必ず予選通過できるわけではありません
以前に書いたかもしれませんが、すごい作品ができたと息巻いて一次も通らなかったことは何度かあります
今でも二つ送ったら一つは一次予選も通過せずに落ちてしまいます
なので、確実なことは言えませんので、そこはご了承ください
私のこれから書くことがみなさまの持っている潜在能力をかき消さないことを祈っております
まず最初に思うことは、応募者の視点で見るのではなく、下読みの立場に立ついうことです
もちろん反論はあると思います「いやいや、文学を志す以上さ、他人に迎合するようなもん書いてどうするのよ。自分が書きたいものをひたすら書かないと」
まさしくその通りです。それで予選通過して受賞できる方はそのやり方で全く問題ないと思います
ですが、多くの人は予選を通過できずに苦しんでいるのも事実です
何度も落選していると、書く気力もなくなってしまうかもしれません
そして、私は思うのですが、プロの作家も読者の目線をどこまでも気にしながら執筆されているのではなかろうかということです
たまに丸山健二みたいな人がいるので、そのやり方で生計を立てることは不可能ではないかもしれません
(彼の初期の作品は本当に素晴らしいものがたくさんありますので、ぜひお読みください。後期になると、私にはついていけなくなってしまうのですが・・・)
では、下読みの気持ちとはなんなのか、ということになります
私が聞いたところによると、数千応募される作品を10人以下で読むそうです。つまり一人で最低でも数百読まなければなりません
かつ、一人で読んだら漏れてしまう才能もあるということで、最低でも二人で読むところもあると聞いたことがあります
しかも、わけの分からない作品も相当数まぎれているらしく、そういう作品は最後まで読んではもらえないとのことです
適切な例かは分かりませんが、M-1などの賞レースに似ているかもしれません。どのコンビも面白いのですが、どんな選考委員でも一番を決めるのは苦慮します
審査員も日によってや気分によって異なる結果になるような気もします
そんな中で受賞したり脚光を浴びるのは、鮮烈なインパクトがあるコンビのように思うのです
決勝はともかく、予選の段階では数百人から何組かを選ぶ上でインパクトなくしては、確実に、選考委員の頭の中に刻まれません
よく爪痕を残すと言って、むちゃくちゃなことをする芸人がいると思いますが、文学賞についても発想としてはあれに近いものがあります
確かに、我々は日々生活をしているとほとんどのことが記憶に残らず流れ去っていきます
昨日のお昼ご飯なんだっけではないですが、記憶に残っていることというのは少ないものです
まだ何ものでもなく、うずたかく積まれた原稿用紙を目の前に、下読みの人たちが何を思うか。そこを出発点にして、インパクトというものを考えていく必要があると考えております
では、インパクトとは何なのか、というのが次のテーマになります