職業作家への道

自分の文章で生活できるなんて素敵。普通の会社員が全力で小説家を目指します

自選小説『ダンディー2』

 

 

ダンディー2』

 

 

その店で働こうと思ったのは、お店から海が見えるからだった。

 

 

もともと、私が通っていた女子校には毎日バスで行っていたから、その時からこのお店のことは知っていた。

 

 

朝に座れることは滅多にないから、私は手すりにつかまるしかなかった。

 

 

バスは電車に比べるとあまりに揺れすぎていて、立ちながら参考書を読むことなんてできない。

 

 

電車だったら単語の一つや二つは覚えることができたのに、バスではそれができなかった。

 

 

車内でできることといえば、眠い目で海を眺めることくらいだった。

 

 

海と反対側に立った時は、お店がにぎやかに立ち並んでいる通りだから、その風景を見ていた。

 

 

高校生だった私には無縁のお店が多かったけれども、ぼんやり見ているうちに高校に着いていた。

 

 

内陸を向いていると賑やかだからあまり退屈はしない。

 

 

その中のお店の一つが富士珈琲だった。

 

 

帰りのバスでは時間帯によっては座ることができた。

 

 

学校の帰り道はもう暗くなっていることが多かったから、海を見ても何も見えずにあまり面白くない。

 

 

どちらかといえば、反対側のお店の通りに活気があった。

 

 

レストランに、ホテルとか、結婚式場などが暗闇の中でライトアップされていて、バスから見える向こうの景色は大人の世界に見えた。

 

 

そういうお店の中に富士珈琲があることは何となく知っていた。

 


大学に入ってからは電車通学になったから、このバスに乗ることもなくなった。

 

 

大学生活は、高校時代に比べると拘束時間が減って気楽にはなったけれども、充実感もなくなっていた。

 

 

高校のようなクラスメートの感覚ではないし、授業は退屈だし、英語サークルに入ったけれども週に二日で、人も多すぎた。

 


時間を持て余すようになって、このまま大学生活が過ぎるのももったいないと気付いたのは、最初の夏休みに入ってからだった。

 

 

周りの人と同じように私も必然的にアルバイトを探すことになった。

 

 

でも問題は、母の説得だった。

 

 

我が家はとにかく門限が厳しくて、21時までに帰ってくるように言われていた。

 

 

大学が終わってからアルバイトに行って、そんな時間に家に着けるようなところはあまりない。

 

 

あっても、短い時間すぎてほとんど稼げない。

 

 

家庭教師の仕事はあったけれども、私は知らない子と長く話すのは苦手だった。

 

 

いいところが見つからず、このままアルバイトもしないで四年間過ごすのかと恐ろしい気分だった。

 


その夏休みに、違う大学に行った高校時代の友人と遊ぶことになった。

 

 

彼女とは高校時代クラスは違ったけれど同じバレー部だった。

 

 

まだ卒業してそれほど経っていないのに、私たちは何度も「懐かしい」を連発しながら高校の近辺を二人で歩いた。

 

 

休日だから担任の先生はいなかったけれど、部活で出ていたバレー部顧問の先生とか後輩とも少し話ができて、私たちは満足した。

 

 

そして、さらにだらだらと話せる場所を探して入ったのが富士珈琲だった。

 

 

ちょうど夏の終わりの夕方で涼しい風も吹いていたから、私たちは店内ではなくて外のテラスに座った。

 


何を食べるかしばらくメニューを見て、散々悩んでからマルゲリータとしぼりたてレモンスカッシュに決めた。

 

 

メニューからふと顔を上げると、道路を挟んで海が見える。

 

 

この景色を知らないわけではなかったけれど、こういう風な見え方をすることは知らなかった。

 

 

そして、ちょうど目の前を、私が当時乗っていたバスが通り過ぎていった。

 

 

私はもう高校を卒業してしまって、高校生の時に窓から見ていた向こう側の世界に来ていることに気付いた。

 

 

「ねえ、これ見て」

 

 

友達が何かを指さしていた。

 

 

「どうしたの?」

 

 

「アルバイト探してたよね」

 

 

「うん。あ、アルバイト募集?何時までだろう」

 

「22時だけど、応相談だって。でもさ、ここって通学路だったわけでしょ。だったら、ちょっとくらい過ぎても、お母さんも安心してくれるんじゃない?」

 

 

持つべきものは親友だった。確かにいい作戦だった。

 

 

すかさずスタッフ募集の紙をスマートフォンで写真に撮った。

 

 

ここで働くかもしれないと思うと、急に緊張してきて店員さんのことが気になるようになった。

 

 

「制服もかっこいいから、いいと思うよ。同世代の男の人もいそうだし。もしかしたらいい人、いるかもよぉ」

 


富士珈琲の制服は白いシャツに黒いエプロンとスカートで、落ち着いて気品があった。

 

 

友達と富士珈琲でひとしきり話してから、私は家に帰って母親にそのことを伝えた。

 

 

「あんた、コーヒーなんて好きじゃないでしょ。苦い、苦いって言って」

 

 

「別にコーヒーが好きじゃなくて店員さんをやってる人だってたくさんいるでしょ。メニューだってコーヒーだけじゃないんだし」

 


「でも、確かにあの海岸通りは明るいし、バスも通ってるし、お母さんも知ってる場所だから、まあ、安心は安心だけど」

 


「じゃあ、明日電話して面接受けるね」

 


「ちょっと待ちなさい。お父さんに相談してから」

 


なんだかんだと言われたものの、父親も娘のバイト先なんてそれほど興味があるわけでもなく、怪しい仕事でなければなんでも良さそうだった。

 

 

そして、私は面接を受けて、無事に富士珈琲で働くことになった。

 


人生で初めてのアルバイトだったのもあって、レジ打ちも分からないし、ドリンクの作り方を覚えるのも一苦労だった。

 

 

フードは厨房で社員の人が作ってくれるから、まだましだったけれど、簡単なものはフロントの接客係がやらないといけなかった。

 

 

その他にもグラスや食器を片付けたり、テーブルを消毒して拭いたり、定期的にゴミを出しに行ったり、意外とやることは多かった。

 


でも、私が一番苦手なのは接客だった。

 

 

最近のカフェは、お客さんが受付に並ぶところが多いけれど、富士珈琲ではお客さんが入ってきたら接客の誰かがきちんと席を案内して、メニューも店員が聞きに行くスタイルだった。

 

 

そういう意味では、カフェというよりレストランに近い部分もあって、食事もそれなりに評判だった。

 


最初のうちは、じょうずに笑顔なんて作れなかった。

 

 

初めて会った人ににっこりするコツを聞いたこともないし、訓練を受けたこともない。

 

 

ひどく緊張していたから、なんとなくお客さんにもそれが伝わっていたような気がする。

 

 

きっと無愛想な店員だと思われていた。

 

 

接客中も、何か知らないことを言われるんじゃないかと怖くて、当時は少しでも早くにその場から離れようとしていた。

 

 

それでも、私はこのアルバイトが気に入っていた。

 

 

同僚はみんな歳が近かったし、社員さんとか歳の離れた先輩たちはみんな優しく教えてくれた。

 

 

そして、何よりもこの富士珈琲からはきれいな海が見えた。

 

 

夜になるとお店も海岸通りもライトアップされて、気持ちのいい潮風が吹いた。

 

 

お客さんが誰もいなくなった時は一人で外を眺めていると、こんな夜にきらびやかな場所に居るだなんて、なんだか魔法の世界にいるような気がした。

 


そこまで私は接客に苦手意識を持っていたけれど、数ヶ月もするうちに私の無愛想な接客は消え失せていた。

 

 

多分、同じ人が見ていたら別人に見えていただろう。

 

 

どんな人でも数ヶ月も経てば自然に笑顔で話せるようになる、と先輩は教えてくれていたから、単に慣れただけかもしれないけれど、私の場合は少し違っているかもしれなかった。

 


大学の授業が午後の時は朝一番からシフトに入ることもあった。

 

 

その時に少し変わったお客さんがいた。

 

 

中年から初老くらいの男性で、白いものが少し混ざった口ひげが生えていて、髪の毛は短く切りそろえていた。

 

 

肌は少し色黒で、黒いシャツにジーンズという組み合わせが多くて、いつも白いスニーカーだった。

 

 

「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」

 


その人は指を一本立てるだけで、一言も喋らなかった。

 


「外と中にお席ございますが、ご希望はありますか」

 


その男は、外にある隅の席を黙って指さした。

 


「では、こちらにどうぞ。ご注文がお決まりになりましたら、机のベルでお呼びください」

 

 

「ホットコーヒーで」

 

 

唯一喋った言葉といえば、それだけだった。

 

 

男の声は、どこか遠くから聞こえてきた雑音のような響きだった。

 

 

喉に小片が刺さってるみたいにざらざらしている。

 

 

「かしこまりました」

 

 

これほど無愛想な人を私は見たことがなかった。

 

 

人のことは言えないけれど、私だってこの人ほど喋らないわけではない。

 

 

そう思うと、自分の無愛想も世間に許してもらえるような気がした。

 

 

「こちら、ホットコーヒーになります。ごゆっくりお過ごしください」

 

 

彼は、私のことなんて一目も見ず、コーヒーに湯気が立っているのを一瞥しただけで、会釈も何もしてくれなかった。

 

 

そして、彼は昼前の混雑してきそうな時間がくる前にだいたい姿を消していた。

 

 

それからも私が午前のシフトに入った時は、必ずこのお客さんが現れた。

 

 

なんだか不思議なお客さんだったから、私は店長に聞いてみたことがあった。

 

 

お昼に休憩室で店長と二人の時だった。

 

 

店長は顔をしかめながらパソコンを開いていた。

 

 

またオーナーから何か無理な注文がきているのかもしれない。

 

 

「毎朝必ず来るお客さんいるんですけど、知ってます?」

 

 

「ああ、知ってるよ。あの人じゃない。えーと、なんだっけ。午前の子たちは全員知ってると思う」

 

 

「あの少し髭の生えた、中年っていうか初老っていうか、男の人」

 

 

「そうだ、ダンディーだ」

 

 

ダンディー?」

 

 

「そうそう。うちの誰かが勝手に付けたあだ名」

 

 

「確かに、ぴったりのあだ名ですね。あの人、誰なんですか」

 

 

「それがさ、結構前から通ってくれてるんだけど誰も知らないんだよ。僕なんかはあまり朝のシフト入らないから、何回か会っただけだけど本当に喋らなかったな」

 


「まさしく、ダンディーですね」

 


自分でもつまらないことを言ったような気がしたけれど、本当にそれしか言えなかった。

 


「気にしなくていいよ。誰にだってあの態度なんだから。別に君の接客が悪いわけじゃない」

 


別に私の接客態度に問題があるからだと思って聞いたわけではなかったけれど、店長はパソコンで何か入力しながら答えていたから、あまり聞いていなかった。

 


それから私はダンディーでいろいろ試してみることにした。

 

 

少し微笑んでみたり、思い切りにこやかにしてみたり、はきはき喋ってみたり、今までやったことのない接客をやってみた。

 

 

何でかは分からないけれど、ダンディーだったら私がどんなに不器用に笑っていても受け入れてくれるような気がした。

 

 

何といっても、彼は何も見てなんかいない。

 


そして、その時に確かではないけれど、私は一つの事実に気がついた。

 

 

ダンディーはああいう態度だけれども、他のお客さんは彼より少し愛想がいいだけで、中身はダンディーと変わらないのではないか、と。

 

 

そう考えるようになった辺りから、私は接客というものにわだかまりがなくなっていた。

 

 

というよりは、あまり自意識にしばられることがなくなった。

 

 

笑顔はいつまで経ってもうまくならないけれど、お客さんと普通に話せるようになっていた。

 

 

そして大学生活はあっという間に過ぎていった。

 

 

私は富士珈琲で大学一年の夏から、大学四年の冬まで働いた。

 

 

就職活動が本格化する三年の終わり頃から、忙しくなってあまりシフトに入れなくなった。

 

 

就職が決まった後も、私は靴屋さんのアルバイトをかけもちするようになって、富士珈琲のアルバイトは週に一度か二度くらいになった。

 

 

それでも大学卒業するまでほそぼそと続けることにしたのは、このカフェからは海が見える素敵な場所だったからだった。

 


富士珈琲でのアルバイトの最終日、私は夜のシフトだった。

 

 

最近、ダンディーが来なくなってしまったと店員の一人から聞いていた。

 

 

富士珈琲に朝来れば必ずダンディーに会えると私は信じて疑っていなかった。

 

 

ここのところ朝のシフトに入っていなかったから、そのことをずっと知らずにいた。

 

 

もし最後だと分かっていたら、「あなたのおかげで、私の接客も少しましになったんです」と伝えたかった。

 

 

でも、ダンディーを目の前にすると、きっと私は言えなかっただろう。

 

 

それに私が神妙にそんなこと言ったとして、ダンディーはきっといつもみたいに無視をするのだ。

 


ダンディーが何でいなくなったのか、誰も知らなかった。

 

 

でも、考えてみれば、そもそもダンディーが何でこの店に来ているのかも、誰も知らなかった。

 

 

富士珈琲に対する最後のお礼と思いながら、私はテラスの床を念入りに箒で掃いて、すみずみまでゴミを取り、テーブルも椅子もきれいに磨いた。

 

 

どれだけ拭いてもそれほどきれいにはならなかった。

 

 

全ての仕事を終えて、お客さんが誰もいなくなってから、私は一つの席に座りながら暗くなった海を見た。

 

 

ふと思えば、この席は最初に高校時代の友達と一緒に座った席だった。

 

 

その時は壁にアルバイト募集の紙が張ってあった。

 

 

もし、その時に一枚の紙が張っていなければ私は今ごろ何をしていたのだろうか。

 

 

でも、そんなことを考えても仕方がない。

 


あの頃の私はきっと今とは別人みたいだった。

 

 

今では接客中に怖いことなんて一つもない。

 

 

今日だって、たまに来てくれる老夫婦のお客さんに最終日だと言ったら、社交辞令かもしれないけど別れを惜しんでくれた。

 

 

富士珈琲は今では自分の家みたいにリラックスした気持ちで、椅子に座って景色を眺めていられる。

 

 

目の前をバスが通り過ぎていった。

 

 

その時だけ通りは一瞬明るくなって、またすぐに夜の通りへと戻っていく。

 

 

高校時代の友達にも最近あまり会っていない。

 

 

お互い次は社会人だし配属先もどこになるか分からない。

 

 

今までよりももっと今後は簡単に会えなくなるだろう。

 

 

私は久しぶりに連絡してみることにした。

 

 

<了>

 

 

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