職業作家への道

自分の文章で生活できるなんて素敵。普通の会社員が全力で小説家を目指します

自分の才能の限界について(その2)

 

 

前回からの続きです。ですが、、、まとまりがなさすぎて、ここから読んでも支障がなかったりするかもしれません(期せずして・・・)

 

ところで、大江健三郎が、「奇妙な飼育」「死者の奢り」「飼育」など数々の短編を引っさげてデビューした時、多くの作家志望者が作家になることを諦めたと聞きます

 

確かにこの初期短編集は今読んでも、はっとさせられます。まだ20歳くらいのこの作家が異化について極めて自覚的だということが理解できます

 

大江健三郎の出現を見て作家を諦めた人たちは、別の道に進んだと何かで読んだことがあるのですが、世には出ていなくとも、自殺してしまった人もいたのではないかと私は勝手に推測しました

 

これは大江健三郎がそれだけすごい作家だと言いたい訳ではなく、(もちろんその評価にも全面的に賛同なのですが、)自分自身で勝手に自分に才能がないと了解してしまうことこそが、自分の作家としての未来を絶ってしまうということです

 

もちろん、それは悪い側面ばかりではないでしょう

 

本当に才能のない(?)人が等身大の自分の姿に気付き、見込みのないことに時間を割くのをやめて、もっと自分が活躍できる場所へ移行しようとすることは、評価されるべき勇気ですし、路線を変えて活躍をしている人は枚挙にいとまがありません

 

自分で言うのもナンですが、職業作家を目指すというのは極めて困難な道で、ほとんどの人が実現不可能でしょう。可能性の観点で言えば、私も高確率で難しいと判定されるはずです

 

そもそも小説を書くというのは厄介な行為です

 

一作を仕上げるのに時間はかかるし、意外と取材とか調べ物とかでお金もかかったりするし、書き始めたらずっと座りっぱなしだし、一人で集中できる環境を用意しないといけないし、応募するためにはプリントアウトとか郵送とかしないといけないし、ようやく完成しても誰も読んでくれず、予選通過もせずにこの世に存在してなかったみたいな扱いだし、、、

 

こんなことを繰り返していて、自分自身の声が聞こえないはずがありません「やっぱり自分には才能がないんだ」と

 

そうやって過去に遡っても膨大な数の方が作家への道、つまりは次の作品、を諦めてしまったのではないかと推測します

 

そして自分もいつそうなるかは分からないとも危惧しています

 

そこで前回の冒頭に戻るのですが、亡くなってしまった文豪もどこかで、自分に才能がないと思ってしまったのではないでしょうか

 

まだ書きたいものがある、まだ書かなくてはならない、と思っている人が自死を選ぶとは思えません。それだけ執筆への意欲というのは強烈なものだと信じています

 

そして、もし彼らが生きていればどんな作品を書いたのでしょうか。個人的なことを言えば、特に芥川と三島は歳をとっていってどのように作風が変わっていたのか、非常に興味があります

 

少なくとも、書き続けていなければ自分の限界を突破できないことに間違いはありません 

 

また次回に続きます

 

日常生活の冒険 (新潮文庫)

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 大江健三郎の著作で私はこの作品が一番好きなのですが、ご本人はこの作品をあまり認めていないのだとか。。。

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